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クリーヴランド四重奏団の奏でる作品18の4(ベートーヴェン) [弦楽四重奏団]

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 ベートーヴェンの弦楽四重奏の世界にどっぷり浸かってしまった後、なかなか弦楽四重奏そのものを聴こうという気が起こらなくなった。

 数十の演奏を聴いてしまうと、何が自分の好みで、何が自分にとって嫌いか、ということがますます鮮明になるためであって、これだからクラシックの愛好家は偏屈だと言われてしまうことになる。

 まずいのは、年とともにかつて自分が大好きだった演奏が輝きを失い、いまいちだと思っていた演奏に良いものが見つかったりすることである。

 心変わりを告白するか、そんなものは存在しないのだと無視するか。評論家だったらどうするのだろう。守るべきものがある場合には、後者の道を選ぶのだろうか。

 幸い、私は音楽の評論家でも、音楽を専門として喰っている人間でもないから、好き勝手に弦楽四重奏を語ることができる。

 しかしながら、かつて取り組んでいたベートーヴェンの弦楽四重奏の聴き比べなど、全面的な改訂を余儀なくされる状態にある。

 感性が鈍っているのだろうか。

 一度「これは!」と思ったエンデリオンも、一年ぶりに聴いてみたら首を傾げざるをえない。何だったのだろう。悪夢のようだ。

 数日続いていた雨も、ようやく落ち着き、土曜の昼下がりを利用して、ヴェーグ・クァルテットの演奏する作品131を聴いた。

 正直なところ、これさえあれば他はいらない、そう思わせる演奏である。

 音楽が演奏とともに完結している。こういう演奏をこそ、名演奏というのだろう。

 では、「お前はヴェーグがあれば、満足か」と問われれば、否、と答えるだろう。

 愛蔵しているブダペスト四重奏団の全集も、ターリヒ四重奏団の全集も、スメタナ四重奏団も手放せない。しかし、どれも、一つで完璧などということはない。

 結局、一つの団体でパーフェクトなんていうことはない。これが浪費を生むのであり、音楽を聴く楽しみや魅力を生むのだろう。

 クリーヴランド四重奏団の評価は私の中ではそれほど高くはない。しかしながら、熱烈に誉める人があったり、そういう評を読んだりすると、「自分の聴き方が悪いのではないか」と思う瞬間がある。「うらやましい」とさえ思う。

 人それぞれ趣味があって当然であって、自分なりに音楽を楽しめばいい。

 でも、私はクリーヴランド四重奏団の演奏を好む人と、ある一点において、分かり合える気がする。

 それは、彼らが奏でる初期四重奏集が抜群にいい、ということだ。もしかしたら、ひょっとしたら、こんな断言はしたくはないけれど、バリリよりも良いかもしれない。

 作品18の4の二楽章など、リスニング・ルームに涼しい秋風が入ってくるような、侘しさと爽快さがあって、絶品なのである。

 音楽が生きて呼吸している。ベートーヴェンが楽しげに語りかけてくるではないか。バリリのように、ソフトで甘美な語り口ではなく、音そのものが微笑んでる気がする。録音された空気感さえ、打ち解けた感じ。飛び跳ねる音の刻み一つ一つに香りがある感じ。

 一楽章の激情が嘘のようだ。激情といっても、タカーチやプラジャークのように、作り物めいた扇情的なものに陥っていないのは偉とすべきだ。音楽の流れ自体に澱みや停滞を生んでしまっては、室内楽は途端に言葉を語らなくなる。

 三楽章の中間部の優しい眼差しを何にたとえよう。主部は枯れ葉がひらひらと舞うような、悲しげな舞踊も風情があって、胸を打つものがある。

 終楽章の美しさは天下一品であって、この楽章の演奏一つをもって、クリーヴランド四重奏団の名は永遠に残るかもしれない。

 エマーソン四重奏団の演奏を聴いてみたくなった。新しい演奏を聴きたいと思えるようになったことは自分にとって喜ばしいことである。ベートーヴェンがふたたび語りかけてくれるようになった気がする。


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