エマーソン弦楽四重奏団のベートーヴェン [弦楽四重奏団]
ベートーヴェン続きで、管理人はよっぽどベートーヴェンが好きなのだな、と思われてしまっても仕方ありません。
前回久しぶりに、ケッケルト四重奏団についてのエントリーをしてからというもの、ジュリアード四重奏団を聴いたり、タカーチ四重奏団を聴いたり、ブダペスト四重奏団を聴いたり、と軽いベートーヴェン熱が出たのです。
私がこのBLOGを立ち上げたころは、本当にひどい装置で音楽を聴いていました。
まあ、「ひどい」と言っても、オーディオ・マニアの目からすれば、ということで、ONKYOのコンポだって結構な音を楽しめたものです。
しかしながら、もっぱらヘッドホンでの音楽鑑賞が主になると、やはりヘッドホンのグレードに合わせて機材もグレード・アップを計らねば・・・という思いに至りました。
私の現在の装置は、以下のもの。
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SACDプレーヤー:マランツSA8004
ヘッドホン:HD650
ヘッドホンケーブル:ALO Cryo SXC 18g
ヘッドホンアンプ:インターシティーHD-1L(Winter Version)
電源ケーブル:AIRBOW CPSC-LH2
RCAケーブル:AIRBOW MSU-X TENSION
インシュレーターとして、KRYNA D-PROP extendを3点支持で、ヘッドホンアンプに。
D-PROP extendとC-PROPを組み合わせて、SACDプレーヤーに3点支持で。
全部で30万円弱の入門クラスだが、今後はSACDプレーヤーのグレード・アップとスピーカーの導入を検討。
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エマーソン四重奏団は、正確無比、ありあまるほどの技巧集団、というイメージで、良い印象はなかった。
DGのつくるCDのジャケットも、ポップス気取りのようなかっこつけのジャケットが多くて、
余計に内容空疎は偏見を持たせられたものである。
往年のアンサンブルに比べれば、情緒とかひなびた味わいとか、魂の交流とか、そうした神韻飄々たる風情は皆無。
しかしながら、ジュリアードやアルバン・ベルク、タカーチが子どもに感じられるほどに、そのアンサンブルの見事さには脱帽せざるを得ない。
解釈も素晴らしい。一つとして曖昧さの残さない磨き上げられた造型であり、一つ一つの音符に都会的なしなやかさと香りがある。音楽がテンポの遅さによって停滞することなく、快刀乱麻を断つように前進し、音楽自体に新鮮な瑞々しさも感じさせる。
それよりも何よりも、その演奏のスリリングなこと!
ラズモフスキー第3番の終楽章は、長いことニュー・ミュージック四重奏団がベストの速さであるけれど、エマーソンは最後の和音のためさえなければ、部分的にはニュー・ミュージックを超えている。2・3秒の違いしかないのである。
これを聴くと、「技巧だけの内容空疎な演奏」と切り捨てるのは惜しい。エマーソンの全集には爽快さとスリリングさという快感の中に、確かにベートーヴェンの音楽があって、そこに抗しがたい魅力があるのである。
なお、後期の曲集については、ボンのベートーヴェン・ハウスで自筆譜のファクシミリの研究も行っている。
確かに、後期といういささか仙界のような音楽に対して、自信に満ちた音楽が展開されている。14番の終楽章や大フーガは技術の凄まじいまでの巧さが、たしかに音楽的感動につながっているように思う。14番の五楽章はさすがにうますぎるけれど。
ケッケルト四重奏団のベートーヴェン [弦楽四重奏団]
2009年11月15日の更新を最後に、本BLOGは事実の開店休業状態になりました。
理由はいくつかあるのですが、最大の理由は弦楽四重奏に対して興味がなくなったことが大きいでしょう。
いや、その言い方は正しくなくて、弦楽四重奏というジャンルに対して、少し背中を向けたい、正視したくない、という思いがありました。
弦楽四重奏が作り出す音楽は、人間の心の深いところに染みこんできて、内省的な思いを起こさせることがあります。
三十路を超えたあたりから、公私ともに忙しくなり、自分の内面を見つめるよりも、外側を向いて生きていかなければならないときに、どうしても弦楽四重奏は日々愛聴する候補から外れていったのです。
もちろん、それでも時々は聴いていました。
私が一番よく聴いていたのは、ブダペストのベートーヴェンで、何度聴いても感慨を覚えました。それに時々プラジャーク。
プラジャークは、SACD機器を新調したこともあって、ヘッドホンも以前よりグレード・アップしたためか、目の覚めるような音質を聴かせてくれるようになり、今ではスメタナよりも好印象です。
それから、この更新が途絶えている間に、本当に素晴らしい録音がCDとして蘇りました。
ケッケルト四重奏団のベートーヴェンの全集です。1953年から56年にかけて録音されたもので、モノラル録音。
それでもこの録音、とっても明快にとれており、楽器の質感、ふくよかで温かみのあるアンサンブルがよく捉えられていると思います。
今、130番を聴きながら、このエントリーを書いていますが、アマデウスやメロスの全集の登場で、ずっと日蔭にあった全集でありながら、訴えかけてくるものは前二者を遙かに凌ぐように思うのです。
それは単純な演奏云々だけではなくて(情緒満点、ドイツの古き良き伝統、あの黒くて深い森を思わせる弦の音色!)、弦楽四重奏は深化しているのか、という思いを常日頃抱いていたからです。
最近の新しいものでは、エンデリオン、タカーチ、アルテミス、エマーソンによる全集があるけれど、どこか食い足りない。
解釈としては素晴らしいし、アンサンブルだって正確無比、聴けばいつだって感心する。
それでも、弦楽四重奏にはそれ以上に、有機的な、人間の温もりのようなものを求めてしまう、下手でもいいから。
カペーやブッシュ、レナーがいまだに愛されるのは、そこに原点に立ち返るような「音」があるからではないでしょうか。
ブダペストだって、あのアメリカで飛び回った「こうもり」かもしれないが、彼らにはどこかグローバル化社会前の、人懐っこい声なき声のような温かさを感じるのである。あの独特の録音(ステレオ録音のほう)に、4人の奏者の心技一体、情緒を感じるのです、気のせいかもしれないが。
最近の団体にそれがないとは言わないけれど、表現の仕方が上手ではなくなっているように思えてならない。
人間に慣れていない人間が増えている昨今、こういう古き良き時代の香りに触れると、ふっとめまいがしたような懐かしさを感じますよ。
クリーヴランド四重奏団の奏でる作品18の4(ベートーヴェン) [弦楽四重奏団]
ベートーヴェンの弦楽四重奏の世界にどっぷり浸かってしまった後、なかなか弦楽四重奏そのものを聴こうという気が起こらなくなった。
数十の演奏を聴いてしまうと、何が自分の好みで、何が自分にとって嫌いか、ということがますます鮮明になるためであって、これだからクラシックの愛好家は偏屈だと言われてしまうことになる。
まずいのは、年とともにかつて自分が大好きだった演奏が輝きを失い、いまいちだと思っていた演奏に良いものが見つかったりすることである。
心変わりを告白するか、そんなものは存在しないのだと無視するか。評論家だったらどうするのだろう。守るべきものがある場合には、後者の道を選ぶのだろうか。
幸い、私は音楽の評論家でも、音楽を専門として喰っている人間でもないから、好き勝手に弦楽四重奏を語ることができる。
しかしながら、かつて取り組んでいたベートーヴェンの弦楽四重奏の聴き比べなど、全面的な改訂を余儀なくされる状態にある。
感性が鈍っているのだろうか。
一度「これは!」と思ったエンデリオンも、一年ぶりに聴いてみたら首を傾げざるをえない。何だったのだろう。悪夢のようだ。
数日続いていた雨も、ようやく落ち着き、土曜の昼下がりを利用して、ヴェーグ・クァルテットの演奏する作品131を聴いた。
正直なところ、これさえあれば他はいらない、そう思わせる演奏である。
音楽が演奏とともに完結している。こういう演奏をこそ、名演奏というのだろう。
では、「お前はヴェーグがあれば、満足か」と問われれば、否、と答えるだろう。
愛蔵しているブダペスト四重奏団の全集も、ターリヒ四重奏団の全集も、スメタナ四重奏団も手放せない。しかし、どれも、一つで完璧などということはない。
結局、一つの団体でパーフェクトなんていうことはない。これが浪費を生むのであり、音楽を聴く楽しみや魅力を生むのだろう。
クリーヴランド四重奏団の評価は私の中ではそれほど高くはない。しかしながら、熱烈に誉める人があったり、そういう評を読んだりすると、「自分の聴き方が悪いのではないか」と思う瞬間がある。「うらやましい」とさえ思う。
人それぞれ趣味があって当然であって、自分なりに音楽を楽しめばいい。
でも、私はクリーヴランド四重奏団の演奏を好む人と、ある一点において、分かり合える気がする。
それは、彼らが奏でる初期四重奏集が抜群にいい、ということだ。もしかしたら、ひょっとしたら、こんな断言はしたくはないけれど、バリリよりも良いかもしれない。
作品18の4の二楽章など、リスニング・ルームに涼しい秋風が入ってくるような、侘しさと爽快さがあって、絶品なのである。
音楽が生きて呼吸している。ベートーヴェンが楽しげに語りかけてくるではないか。バリリのように、ソフトで甘美な語り口ではなく、音そのものが微笑んでる気がする。録音された空気感さえ、打ち解けた感じ。飛び跳ねる音の刻み一つ一つに香りがある感じ。
一楽章の激情が嘘のようだ。激情といっても、タカーチやプラジャークのように、作り物めいた扇情的なものに陥っていないのは偉とすべきだ。音楽の流れ自体に澱みや停滞を生んでしまっては、室内楽は途端に言葉を語らなくなる。
三楽章の中間部の優しい眼差しを何にたとえよう。主部は枯れ葉がひらひらと舞うような、悲しげな舞踊も風情があって、胸を打つものがある。
終楽章の美しさは天下一品であって、この楽章の演奏一つをもって、クリーヴランド四重奏団の名は永遠に残るかもしれない。
エマーソン四重奏団の演奏を聴いてみたくなった。新しい演奏を聴きたいと思えるようになったことは自分にとって喜ばしいことである。ベートーヴェンがふたたび語りかけてくれるようになった気がする。
ハンガリー四重奏団の世界 [弦楽四重奏団]
古今の名四重奏団の中でも、傑出した団体だと個人的に考えているのは、ヴェーグ、ブダペスト、スメタナ、そして今回採り上げるハンガリー四重奏団である。
カペーやブッシュはどうした?という批判もありそうだが、個人的な好みという観点からすれば、彼らの演奏はもはや古い。不思議な話だが、さらに古いクリングラー四重奏団の演奏のほうが今もなお新鮮なのだ。その違いはちょっとわからない。
ハンガリー四重奏団はモノラルとステレオにベートーヴェンの全集を録音しているが、出来栄えは問題なくモノラル盤が良い。
ステレオのは、残響に乏しく、技巧の衰えと即物的な解釈への傾倒が著しく、とてもモノラル期の団体とは思えない。もちろん、ものによっては素晴らしいものがあるのだが。
弦楽四重奏を聴くのは、何か人生のヒントが欲しいとき、研究が煮詰まってきたとき、本を読んで心にしんみりとした湿った情感が漂うときである。
家人が寝静まり、研究で疲れた頭を休めようと何気なく手に取った。それがハンガリー四重奏団の旧盤だった。改めて聴いてみて、これは素晴らしい、と思った。
世の中では、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のうち、初期6曲はどちらというと軽視される傾向があるようだ。どことなくモーツァルトやハイドンの影響から抜け出せていない、というよりも、弦楽四重奏の世界に対して、ベートーヴェンらしい戦いが確立していないことにも原因があるようである。
しかし、何度も聴いて飽きがこない、という点では、初期の作品群は後期と並ぶ。逆に中期は、飽きが来る。「あれだけの傑作に対して何ということを!」と自分でも思わないでもないが、中期の作品には気負いが見られる。特にラズモフスキー三部作には「効果」を狙いすぎた跡がある。もちろん、だからこそ素晴らしいのだが・・・。
初期のうちの4番を聴いて、ハンガリー四重奏団の素朴でありながら、しみじみとした情感、雨水を含んでしっとりとした柔らかい土のような、独特の音色に癒された。
解釈は、後年のステレオ録音と同様に、速めのテンポを基調とした淡々としたものではあるが、この人たちは自分たちのベートーヴェンをしっかり持っていて、その揺るぎない自信の上で、ベートーヴェンが堪らなく好きであることを心から告白しているのだ、ということをひしひしと感じる。
ウィーン生まれの楽団が時に聴かせるお花畑のような風情がどこにもなく、「自分たちの言葉でベートーヴェンを語る」という結果が、普遍的な感動にまで達していることを偉としたい。
オルフォード四重奏団のベートーヴェン全集を聴く(18-2 & 130) [弦楽四重奏団]
作品130にはこれぞという愛聴盤が存在しない。個人的には、ヴェーグQかブダペストQのステレオ録音が一番好きだが、どちらもカヴァティーナが美しくない。カヴァティーナが美しくなければ、名演足りえない、というのが難しいところだ。
ところが、カヴァティーナに関しても、「これは!」という名演に出会ったことがないのだ。かろうじてバリリQとハンガリーQのモノラル旧盤が満足できるが、いま少しゆったりとしたテンポで音楽の美しさを満喫したい思いもある。バルトークQは小味に過ぎる。
ゆったりとしたテンポといっても、何とかディスク大賞受賞のタカーチQのように粘りすぎると、音楽は低回し、素朴さや情緒、神韻飄々たる神秘感が失われてしまう。ただのムード音楽になり下がる可能性が常にあるわけだ(アルバン・ベルクQ)。
オルフォード四重奏団の演奏も甚だ満足できない演奏だ。一楽章は現代風のスタイルで、序奏部をゆったりと演奏し、主部に入ると元気一杯。機能性を重視し、きびきびと進んでいく。個人的にはここはこのような音楽ではなく、寄せてはかえす波のように、悠久を感じさせる音楽でなければならぬ。たとえば、ステレオ録音盤のブダペストQを聴いてみれば、主部がどんどん盛り上がっていくにつれて、テンポが自然に落ちていくのを再発見することだろう。この絶妙の呼吸感こそ、音楽の真の姿をあぶり出すのである。
二楽章、三楽章、四楽章については短い間奏曲のような風情があり、オルフォード四重奏団も妙な神経を使うことなく、音楽の美しさを清らかな弦の音色によって表出している。プラジャークQは神経を使いすぎて曲の自然な流れを失いがち、アルバン・ベルクQはただ流れていくだけ。オルフォード四重奏団はさすがにそのようなことはない。ただ、ヴェーグQのよう幻想性や、聴いていて滅法悲しくなるような枯淡さには程遠い演奏だと言える。ブダペストQにしても、何にもしていないように見えてそこかしこに寂寥が漂っているではないか。
カヴァティーナはやや遅め。美しいことは美しいが、さらに豊かさと繊細さを兼ね備えた幻想性の表出が必要であり、現実的にすぎる。
終楽章は「大フーガ」ではなく、ベートーヴェンが新しく書いた新版を用いている。「大フーガ」を真の終楽章であると断ずる音楽学者や愛好家の方々も多いが、作品131との姉妹作という観点からすれば、この新フィナーレもそれなりの見事さを持ち、作品130に統一感をもたらしてはいる。それが作られた統一感であり、「大フーガ」こそ、曲全体に均衡と不均衡をもたらすミューズなのだとも言えるが・・・。聴いてよければ、全て良し。オルフォード四重奏団のは可もなく、不可もない無難な仕上がり。
併録の18-2は130よりは数等素晴らしいが、18-1のような完成度には欠ける。強音はいささか耳に痛く、初期四重奏曲集が持っているやわらかさと瑞々しさを欠きがちなのが残念だ。たくましすぎるのが良くないというわけではないが。