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弦楽四重奏聴き比べ <ベートーヴェン:「大フーガ」> その⑤ [ベートーヴェン:弦楽四重奏曲]

 「大フーガ」を集中的に聴いていて思うのは、この曲を13番とは独立して演奏している団体と13番の正当な終楽章として演奏している団体との間に差がないということである。

 13番の一部として演奏しておれば、それだけ演奏が優れているかというとそういうわけではない。「大フーガ」という音楽を私が突然変異だと思うのは、ことこの理由による。確かに、ベートーヴェンはこの楽音に置いて別世界・別次元の音楽を創造しようとしている。13番の終楽章として演奏しようとしまいと、四重奏団はこの「大フーガ」において第9の終楽章にも似た「世界の激変」を(程度の差こそあれ)体現せねばならないわけで、これが相当な精神力を要求するのだ。

 しかし、ベートーヴェンが13番の終楽章として、あの最美のカヴァティーナの後に、この「大フーガ」を置いた、という点ではやはり13番の全楽章との有機的統一を心がけることになる。13番を独立しようとしまいと、多くの演奏家はカヴァティーナから「大フーガ」を見ているように思う。悲しみを克服する怒りか、悲しみを肯定した人生賛歌か、そんな単純な二分法でくくることはできないことを重々承知してはいるものの、確かにそのような演奏の違いがあることを指摘したい。

11. ターリヒ四重奏団 (Calliope) 1977年録音
15'30''

 ついに五回目を迎えた「大フーガ」の徹底試聴であるが、これまであまり「これは!」と思う演奏にめぐり合えなかったので心配になった。

 ターリヒ四重奏団のそれは名演である。昔聴いたときは、線が細すぎるような印象を受けたのだが、むしろその脚色のない、四奏者が奏していることのわかる風情が素晴らしい。冒頭から気迫がこもっているが、激情や苦々しい感情の発露というよりは、音量調節を微妙に変えてニュアンスを付けることによってきめの細かい、格調を失わない演奏を展開している。

 ターリヒ四重奏団の演奏はけして感情的になりすぎず、深刻になりすぎず、常に知的でユーモアにも溢れている。以前家庭的アンサンブルと書いたが、ここでの印象も変わらない。四奏者がそれぞれ語り合うような素朴な味があり、懐かしさを感じさせる情緒もある。これまでの彼らの演奏もすべて水準以上の演奏を聴かせてくれていたが、やはり唸らせるものがある。生きる悦びを「大フーガ」から感じさせるのである。親しみやすさという面でも東京カルテット以上である。

 もっとも、これは「大フーガ」ではない、という方も当然おられるだろう。しかし、いたずらに晦渋さを目立たせるような演奏よりも、音楽を聴く悦び、演奏する悦びを忘れない彼らの演奏に慰められた思いである。あのカヴァティーナの後におかれた「大フーガ」としては、新フィナーレに通じる人生肯定がある。

12. ズスケ四重奏団 (edel classics) 1981年録音
15'37''

 これは非常な名演奏だ。ズスケ四重奏団のベートーヴェン全集は愛好する方の多い演奏である。告白するが、私はどちらかというと、ズスケの時に聴かせる、引っ掛けるような奏法が苦手で、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲もあまり聴かない。真面目、誠実そのものといったヴァイオリンを聴かせてくれるのだが、もっと面白みが欲しくなる。それでも、ことベートーヴェンの弦楽四重奏の場合はそういう私が苦手とする面が陰をひそめており、ズスケの良い部分、オーソドックスな誠実そのものの演奏を聴かせてくれる。

 このズスケ四重奏団の「大フーガ」はターリヒ四重奏団と同じで、けっして明るさや音楽を聴く悦びを失わせない演奏である(これまでの演奏がそれだけ気詰まりだったということだ)。さらに、ターリヒ四重奏団と違うのは、これがドイツの正当な解釈なのだ、という気合を感じさせるところである。凛としており緊張感を失わない。そして、何という清純な志のある演奏なのだろう。音が濁ることなく、感動的なクライマックスでは、あの人間であることの悲しみを訴えるような泣き節に至るまでを、けして人生肯定の朗らかさを忘れることなく絶妙なテンポとリズムの刻みで聴かせてくれる。

 ターリヒ四重奏団とどちらが良いかということになると、やはりズスケ四重奏団のほうが厚みと気迫がより音化されている点で、後者を採りたい。

13. アマデウス四重奏団 (DG) 1962年録音
15'25''

 アマデウス四重奏団を含めたこれまで三つの団体が共通して持っているのは、「明るさ」である。それは「楽観的」であるという意味ではけしてない。「大フーガ」を、晦渋な、暗いだけの音楽、怒りだけの音楽というように奏するのではなく、その複雑なフーガからベートーヴェンのユーモアをも聴かせてくれるのである。確かに、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲は諦観や苦悩、そして井上和雄氏の言葉を借りれば、「人間であることの怒り」が込められているように思う。しかし、そこには達観した人生肯定もある。「大フーガ」にはこうした複雑な側面があるようだ。今日ここに至って、クリーヴランド四重奏団、メロス四重奏団が如何に一面を捉えただけの演奏であるかを思い知ってしまった。さらに言えば、アルバン・ベルク四重奏団が如何に何も音にしていないかということも・・・。

 アマデウス四重奏団の演奏は前二者と「朗らかさ」という点で驚くほど類似している。ターリヒは三者の中で知性と家庭的アンサンブルが聴かせるユーモアと安心感に秀でており、ズスケはドイツ的誠実さと格調の高さに秀でており、アマデウス四重奏団は歌心に秀でている、といえば良いだろうか。アマデウスもドイツの伝統的な四重奏団であるが、どうもズスケ四重奏団ほどの格調の高さや、ターリヒの知的ユーモアには達していないように思われる。安心できるオーソドックスな解釈であるが、がくっと聴き劣りがする。これはアンサンブルがやや雑であること、楽天的にすぎることに尽きるかもしれない。ターリヒやズスケはあれだけ朗らかさがあったとしても、フーガの裏に隠されたベートーヴェンの寂莫たる感情を常に私たちの前に明るみに出していた。しかし、アマデウス四重奏団の場合にはまだ「流しただけ」という印象がぬぐえなかった。それだけ、ターリヒとズスケ、特にズスケが凄いのだ、ということになろう。

 「歌」という点からすれば、コロッケにはキャベツという定番と同様、「イタリア四重奏団はどうした」という疑念を持たれて当然だ。必ず、取り上げます。

 どうやら、ここまで比較試聴の回数を重ねてきて、私はズスケ四重奏団とターリヒ四重奏団という名演奏にようやく出会ったようである。ステレオ録音を集中的に聴いてきたわけだが、以降はモノラル録音にも軌跡を残しているヴェーグ四重奏団とハンガリー四重奏団を新盤(ステレオ)、旧盤(モノラル)の順に取り上げることにしよう。その後、モノラルの名品であるバリリ四重奏団、ブダペスト四重奏団(こちらはステレオ録音とはメンバーが異なる)、ハリウッド四重奏団、レナー四重奏団などを集中的に聴き(ステレオと交互に聴くのでは、録音にハンデがありすぎる)、ゲヴァントハウス四重奏団とウィハン四重奏団を扱う。どちらも私が持っている全集中で最新盤であり、どういった伝統を踏まえているかに興味があるためである。研究では先行研究が重要であるのと同様、この二つの誠実な団体の解釈には、「先行研究」という名の伝統の血肉化がある。聴く側も、いくつもの演奏を聴いた上で臨みたい。 また、それ以外の団体についても随時取り上げていく。本当は、LPでしか聴けない団体も聴きたいのだが、LPを再生できない私は泣くしかない。

 「大フーガ」ばかりというBLOGも珍しいような気が。読者の皆様、どうかご興味をなくさないでちょ・・・。


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