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ヴェーグ四重奏団のブラームス:弦楽四重奏曲第3番 [ブラームス:弦楽四重奏曲]

 一ヶ月以上もエントリーを怠っていました。

 公私ともにいろいろと思い悩むこともあり、また本業の研究のほうでは学会に向けての準備、論文執筆などが目白押しで、とてもまともな神経で音楽に向き合う時間がなかったためです。

 今年は本当にわずらわしいほどに雑務に追われる一年になりそうですが、音楽、そして音楽について書くことは心のバランスを保つ大切なライフ・ワークの一つです。出来る限り続けてみましょう。

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 ブラームスの弦楽四重奏曲は完成までに紆余曲折を経ました。何しろ、第1番の完成までには20あまりの作品が書かれましたが、その全てが破棄、あるいは放棄されています。

 第1番と第2番は1873年に、第3番は1875年に書き上げられたように、彼の三曲の弦楽四重奏曲はそれまでの紆余曲折を乗り越えて一気に爆発、開花した作品なのです。

 ブラームスの弦楽四重奏はとても一筋縄ではいかない作品のように思われます。特に、1番と2番については敬遠してしまいます。観念の産物というのか、彼の内面にあるあらゆる複雑な感情が音楽としての楽しさを犠牲にしてまでも厳しい姿で屹立しています。

 こういう音楽をドラマティックにやろうとすればヒステリックになり、彼の他の諸曲のようにラプソディックに演奏すれば何も語らなくなることでしょう。難曲中の難曲であり、演奏する者を選び、聴く者を選ぶ曲種であろうと思います。私はいまだブラームスの四重奏曲についての納得しうる評論を読んだことがありません。

 ブラームスの弦楽四重奏は彼の若い時期(といっても40歳を過ぎた頃)の作品だけに、あまり良くないという人もいます。これは残念なことです。この三曲を聴けば、ブラームスがこれ以上弦楽四重奏を書き上げることができなかったことがわかろうというものです。実に恐るべき完成度を誇る「魂の結晶」なのです。

 ベートーヴェンはブラームスの後継者と目されていますが、この四重奏曲を紐解いていくと、ベートーヴェン以上に禁欲的で、高潔なまでの精神に打たれてしまいます。目指すところ、そして内容も全く違うベクトルにあるものの、その作曲姿勢にはやはり楽聖に通じる姿を見出すことでしょう。

 難曲ではあるものの、けして名演奏に恵まれていないわけではありません。幸いにも、ヴェーグ四重奏団が英DECCAに素晴らしい全集を残してくれました。 

 ヴェーグ四重奏団の素晴らしさはベートーヴェンの比較試聴でも事ある毎に書き連ねてきましたが、ひょっとしたら彼らのブラームスはベートーヴェン以上かもしれない。1952年と1954年のモノラル録音ではありますが、彼らの澄み切って透徹した音楽作りを楽しむには良好すぎるほどの録音状態です。

 もっとも最近出ている復刻盤については海外のファンがキレています。DECCAの復刻盤はユニバーサルになってから劣化することが多いのですが、ヴェーグ四重奏団もその犠牲になったのでしょうか。写真に挙げたのはまだレコード番号がPOCLの頃のもので、良好です。

 ブラームスの弦楽四重奏の中では、3番が朗らかで美しい抒情を持った作品です。

 一楽章ヴィヴァーチェの冒頭からして鮮烈ですが、アンダンテ楽章の胸にじーんと迫る感動はどうでしょう。晦渋になりすぎない深い精神の響きに耳を傾けていると、まるでブラームス自身の魂に触れているような錯覚すら覚え、やがて彼の生きることへの懊悩は私たち一人一人の心の中へと沈んでいくのです。

 三楽章アジタートの心の詠嘆を思わせるような寂しさも絶品であり、四楽章は深い精神性の発露となって、ポコ・アレグレット・コン・ヴァリアツィオーニが綿々と、そして秋の陽射しの中ブラームスの内面を綴っていくのです。

 ヴェーグ四重奏団の演奏は鮮やかであり、透徹した美しいハーモニーが耳を奪います。ちょっとした優雅な仕草がブラームスの音楽との相性の良さを思わせ、大げさな表情付けや粘りすぎることのない旋律の奏し方が素朴な味わいを生み出し、ブラームスの音楽を聴く楽しみを倍加させるのです。どこか人間を優しく見つめるような眼差しがあって、音楽をこの上なく繊細で情感豊かなものにしているのです。

 ヴェーグ四重奏団のベートーヴェンの後期作品を演奏するかのような、清い魂でただ精神を高めていくような素朴な奏法がブラームスの四重奏曲にはマッチするのでしょう。


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