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ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲 ブログトップ
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ベートーヴェン四重奏団が奏でるショスタコーヴィチ <第8番と第10番> [ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲]

 ベートーヴェン四重奏団のショスタコーヴィチは、録音が60年代の旧ソ連のものであるにも関わらず、音質が非常に優秀である。

 私が聴いているのはMelodiyaレーベルのもので、1、3、4、7、8、10、11、12、13、14、15番が発売されている。おそらくマスターの音源を使っているものと思われ、鮮明で生々しい音で現代でも通用する素晴らしい音で聴ける。

 ただ、全曲復刻されていないところが痛い。特に大好きな9番を欠いている!Melodiya様、ぜひ、残りの2番、5番、6番、9番を復刻してはいただけないでしょうか?もちろん、全集ボックス・セットでも買いますよ(いや、多分出さないな、この会社)

 いや、失礼、取り乱しました。クルリンパッ。今回は8番と10番を聴きましょう。

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番の名盤はといえば、私が好むのはボロディン四重奏団の演奏(コペルマン時代の70年代~80年代にかけての全集盤)。ベートーヴェン四重奏団の演奏はショスタコーヴィチの音楽の持つ狂気とか凶暴性、冷酷無残なまでの透徹感を音にするというよりも、もっと内面に隠された涙やナイーヴな心の温かさを大切にする。こんな団体だけに、8番のような音楽ではそのアプローチが仇になるのではないかという危惧があった。

 しかしながら、それは杞憂に終わった。この演奏もやはり素晴らしい。

 一楽章の肉厚でヒステリックになることのない豊かな響き。二楽章のいたずらに激情に走らない格調の高さにほっとさせられる。三楽章はボロディン四重奏団で聴くと念力のようなものを感じて呪縛されてしまうのだが、ベートーヴェン四重奏団は人間ショスタコーヴィチを聴かせてくれる。四楽章のアレグレットの強迫観念のような弦の叩きつけ方は流線型になだらかに奏され、泣き節のようでさえある。五楽章のかきくどくような節回しに胸がしめつけられ、一途に切なくなってしまう。ショスタコーヴィチを聴いていて切なさや温もりを感じる!これがベートーヴェン四重奏団の素晴らしさなのだろう。

 録音状態はおそらくこれは状態の良いモノラルなのであろう。

 10番。録音は冒頭のみやや荒れているが、鮮明であり、高音が若干刺激的ではあるものの、定位がしっかりしているので聴きやすい。

 一楽章は沈んだ感情に満ちているものの、繊細なハーモニーが溢れ、ニヒルな鼻歌のようなユーモアがわさびのようにきいている。二楽章はボロディン四重奏団ならば応接の暇もないほどに激しい気迫と怒りに満ちた狂気乱舞になるが、ベートーヴェン四重奏団のは音楽的であり、古典的な格調を感じる。たとえていうならば、ショスタコーヴィチをベートーヴェンを演奏するかのように格調を持って奏でているのである。三楽章も苦悩と悔恨を慰めるような音楽の美しさを淡々と音にして綴っていく。アタッカで続く終楽章も古典的格調と音楽としての美しさに満ちており、鼻歌のように終わってしまう。刺激的な部分が皆無。

 ベートーヴェン四重奏団を聴いていると、ショスタコーヴィチその人と話しているような気がしてくる。もっとも、ショスタコーヴィチの音楽はもっと凶暴で、冷酷無情なまでの透徹した寂寞の音楽なのだという見方からすれば、大人しすぎ、10番の四楽章など何でもなさすぎるかもしれない。

 しかし、聴いていて辛くなるような音楽ばかりがショスタコーヴィチではないだろう。ロジェストヴェンスキーのショスタコーヴィチを聴いてますますそう思うようになった。


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弦楽四重奏に見る人間ショスタコーヴィチ [ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲]

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を聴くようになってから、最近はショスタコーヴィチ関連の論考を読んだり、CDを楽しむ日々を送っています。知れば知るほど、ショスタコーヴィチが大好きになっていく自分がいます。

 本館のThe World of Kitakenでは、プレトニョフのベートーヴェン:交響曲全集を採り上げるなど、近頃の私はロシアづいているのかもしれません。

 ここ数日、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲をあれこれ様々な団体で聴いてみましたが、やはりボロディン四重奏団の演奏は他の演奏団体を圧するような強力な念力を持っているようです。

 コペルマンが第1ヴァイオリンとして加わって、彼らが初めて完成させたメロディア全集はその最たるものといえましょう。

 私はこのメロディア全集に愛着があり、CDでも、ビクター旧盤、BMGメロディア盤(国内盤・輸入盤)、露メロディア盤と5種も持っています。揃えるつもりで買っていたのではないのですが、それだけ好きなのでしょう、貯まってしまった。

 ところが、どうもベートーヴェン四重奏団やタネーエフ四重奏団の演奏、さらにはドゥヴィンスキー時代の彼らの演奏(デッカ、シャンドス)を聴きこむにしたがって、メロディア全集に心的距離を置くようになりました。

 メロディア全集は、極端な言い方をすれば、非人間的なまでに冷酷無残で、涙も出ないような墓場の音楽に感じられる。ショスタコーヴィチの音楽は確かにそういった点が大きな特色となっており、この純化された悲劇とでも言うべき音楽美を表現できなければ、軟弱な演奏になりかねないことは事実です。

 しかしながら、ショスタコーヴィチの音楽はそういった面だけではなく、人間的な温もりや寂しさ、純粋無垢なあどけなささえ持っているのです。

 メロディア全集の弦楽四重奏曲第13番を聴いてみましょう。これだけを聴けば物凄い音楽だなと思うことでしょう。ショスタコーヴィチとは一体どんな人なのだろう、こんな絶望の音楽を書くなんて・・・と。しかし、ベートーヴェン四重奏団やドゥヴィンスキー時代の録音を聴けば、ショスタコーヴィチは隔絶された孤高の人物ではなくて、現代に生きる私たちの心にそっと寄り添い、一緒に泣き、苦しみ、怒ってくれる人物であることが痛いほどよくわかる。

 ショスタコーヴィチの生きた時代は、想像を絶する苦悩と悲劇の時代だったのかもしれない。しかしながら、私たちの生きる時代もまた、苦悩と悲劇に苛まれているのだということをショスタコーヴィチの音楽を聴くたびに思うのです。

 ショスタコーヴィチが生きた時代と比べて、現代社会がそれほど好転していないような気さえしている私には、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はますます現実味を帯び、あたかも彼自身の肉声を聴くばかりか、現代に生きる私たち自分の声を聴くような錯覚を覚えるのでした。


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ボロディン四重奏団のDECCA録音 [ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲]

 ボロディン四重奏団のショスタコーヴィチといえば、やはりメロディアから出ている全集とシャンドスから出ている選集にとどめを刺すのだろうが、彼らが西欧に初めて残したこの8番も聴いておきたい。

 録音は1962年。夏のエジンバラ音楽祭に招かれた際に録音された。興味深いことに彼らは1962年に三種も8番を録音している。マーキュリー(フィリップス)、BBCレジェンズ(これはライヴ録音)、そしてこのDECCA録音である。

 写真はすでに廃盤久しいキング盤である。現在も入手可能であるが、このCDのカップリングのウェラー四重奏団のショスタコーヴィチ(弦楽四重奏曲第10番)はカットされているのが残念だ。ディスク・ユニオンなどに行くと、880円くらいで売っている。見かけられることがあったら、ぜひご入手されることをお薦めしたい名盤である。

 演奏はボロディン四重奏団の同曲の録音の中でも、一番結晶化されている部類に入るだろう。ファースト・ヴァイオリンはまだロスティラフ・ドゥヴィンスキーの時代の記録であるが、Chandos盤と比べても随分印象が違う。参考までにタイムを掲載しておく。

DECCA録音 (1962)
1st 4'22'' 2nd 2'43'' 3rd 3'58'' 4th 5'12'' 5th 3'18''

Chandos盤 (1967)
1st 4'52'' 2nd 2'51'' 3rd 4'13'' 4th 5'23'' 5th 3'20''

Melodiya盤 (BMG) (1978)
1st 5'02'' 2nd 2'50'' 3rd 4'24'' 4th 5'50'' 5th 3'46''

 如何にDECCA録音がすっきりとしたテンポであることがわかろうかというもの。余分なものがいっさいなく、解釈も演奏技術も磨き上げたという感がある。

 8番が録音されてからたった二年しか経ていない時期の録音であり、新鮮さと活き活きとした前進性、曲に対する真摯な姿勢、魂からの共感に心を打たれる。録音の素晴らしさもあって、ボロディン四重奏団の音色を堪能できるのがたまらない。人間味に溢れ、土俗的な印象すら受けるのが面白い。

 一楽章のラールゴから静謐で張り詰めた空気が漂い、音符の一つ一つに血の通った力を感じる。アレグロ・モルトも鮮やかさや攻撃的な力に終わらない魅力がある。何といっても後の演奏に比べてリズムの処理に独特の味があり、音楽をドライヴしていく熱っぽさも格別である。アレグロも音楽の生々しさが素晴らしく、BMG盤では血の凍るような恐怖にしか思わせない音楽が、魂の底からの訴えとして聴こえる。四楽章のラールゴも念力のようなエナジーよりは、素朴な心の調べとしての解釈が先にあり、ダイナミクスも素朴で純真である。そして音楽は五楽章の深い悲しみと祈り、静けさの中に沈んでいく。

 この演奏と比べると、他の二種の演奏はどう感じられるだろうか。まず、Chandos盤は初々しさは消え、より情感が増し、多彩な表情が感じられる演奏である。LPの板起こしなのかもしれず、やや豊かさに欠け、音が痩せがちなのが損をしている。実際に聴けば、もっと迫真的な演奏のような気がする。そして、BMG盤は研ぎ澄まされたような殺気と霊気漲る風情が、あざといほどの効果をもたらす名演である。

 今日は本当に久しぶりに友人夫妻の家に遊びに行ったのだが、その前に中古CD店を訪れることができた。数ヶ月ぶりのことである。ショスタコーヴィチの棚を見たら、BMGからかつて出ていたボロディンの全集が、一巻だけで1万円以上の値段だった。二巻揃えると二万円?むーん。廃盤だからと言ってこれはひどい。こんなものを買うよりは、ヴェネツィア盤やメロディア盤をお薦めしたいところ。

 なお、このCDにはウェラー四重奏団の10番の演奏が収録されている。ウィーンの団体だけにお花畑のようなショスタコーヴィチが広がるかと思えば、純音楽的な美しさとスコアの読みの深さに驚かされ、本場顔負けの熱狂的な演奏(二楽章!)にビビッとくること請け合い。


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ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲 第8番 ハ短調 作品110 [ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲]

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中でも屈指の名曲とされ、最高傑作と評価されることもある第8番。「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に」捧げられている。

 演奏はボロディン四重奏団が凄まじい。タネーエフ四重奏団も香りと詩情さえ聴かせてくれる本当に素晴らしいものだが、ボロディン四重奏団のは何か念力のような音楽をはみ出した力が漲っており、圧倒されずにはいられない。私がよく聴くのはコペルマン時代のものである。

 一方、第1ヴァイオリンがドゥビンスキーだった時期の録音も残っており、こちらのほうを高く評価される方も多い。彼がせめて14番、15番が作曲されるまでソビエトに残っていてくれたら、この旧盤がボロディン初の全集となったのに。

 歴史の不運。コペルマン時代の全集が出て、この旧録音は永らく入手難の時代が続いた。さらに悪いことにLP盤でしか聴くことができなかったのだ。

 しかし、2003年にChandosが復刻してくれた。有難や~。ついでに、ベートーヴェン四重奏団のベートーヴェン全集やショスタコーヴィチ全集も全部廉価でマスター・テープから高音質の復刻をしてほしい。お・ね・が・い・で・す・か・ら!

 さて、そのドゥビンスキー時代の演奏は、といえば、より人間的な温かみを残した演奏である。コペルマン時代の演奏が非情なまでに透徹した、張り詰めた演奏であるのに対して、こちらは素朴さが顔をのぞかせ、人間臭い情緒や温もりがある。音楽が激しようとも、ザッハリヒになりすぎず、熱き血が通う。

 実は初めて聴いたときは面喰らった。拍子抜けしたと言ってもいい。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲と言えば、弦が軋むくらいにゴリゴリとした騒音を立てて曲が持つ暴力的なエナジーを爆発させ、血も涙もないような冷たい透明な音色でもって聴き手に恐怖と不安とを与えるようなイメージがあった。

 もっと凄まじい怒りで聴く者を鼓舞してくれよ。社会に生きることの苦しみと悲しみとを思う存分味あわせてくれよ。こっちがひいてしまうくらいに!これが最初の感想だった。

  ここに聴くのはふっくらとした柔らか味を兼ね備え、音楽から人間ショスタコーヴィチの温もりや涙を失わない演奏である。ベートーヴェン四重奏団の演奏に近い。

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の厳しいイメージは多分にボロディン四重奏団の演奏によって作られているのではないだろうか。ショスタコーヴィチはもっと複雑な感性を持った人物であり、残された音楽もさまざまな感情や音楽性に溢れているのではないのか?

 ショスタコーヴィチは人間だ。そう思わせてくれる演奏がボロディン四重奏団の旧盤やベートーヴェン四重奏団の演奏である。このことがわかると、途端にこの旧盤やベートーヴェン四重奏団の演奏が心の宝石のような魅力を放つようになった。


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ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲 第13番 変ロ短調 作品138 [ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲]

 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は聴き始めると、どんどん引き込まれてしまう。9番を聴きだしたら、8番、11番、12番、13番、14番、15番と立て続けに聴いてしまった。深刻な音楽であるが、人を惹きつけてやまない魅力があるのである。

 それはたとえば、目を向けたくないものに目を向けさせられるような、知りたくない真実を知らされるような啓示に満ちている、とでも言えばよいのだろうか。

 この13番は本当に物凄い曲だ。1970年の作であり、ベートーヴェン四重奏団の創始者の一人でもあるヴィオラ奏者ボリソフスキーに捧げられた。

 ヴィオラが終始活躍するのはそのためかもしれない。単一楽章であり、全体で五部の構成をとる。いつ聴いても沈鬱な音楽で、悲しみや絶望を音として純化するとこういう音楽になるのかと思わせる。この曲を作曲したショスタコーヴィチの精神状態を想うと、彼の魂はすでに彼岸にあったのではないかとさえ思えてくる。

 演奏は長いことボロディン四重奏団を愛聴してきたが、ベートーヴェン四重奏団の演奏もまた絶品である。冒頭から打たれる。身をよじって嘆くような悲嘆が聴かれ、ボロディンの冷徹なまでの演奏とは違い、素朴で、情緒に濡れた風情もある。ボロディンでは泣けなかったのに、私はこの演奏を聴いて初めて涙した。

 ボロディン四重奏団で聴くと白けてしまうくらい絶望的で、冷たく、恐怖に満ちた音世界が、人間の音楽として響く。それは通俗的であるということではなく、どれだけスコアが純化され、抽象世界になっていこうとも、そこに人間ショスタコーヴィチの温もりや涙を探り当てていくベートーヴェン四重奏団の類稀な才能が光っているのだ。

 限りない優しさと人間に対する愛情に溢れたこの演奏は、13番のひとつの真実を捉えていると断言する。願わくば、マスター・テープがメロディアに存在するのであれば、復刻してほしいものである。Doremi盤の音質は全く想像できないので不安だ。

 写真の盤には、11番、12番も収録されているが、これらも絶品である。 


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