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ケラー四重奏団の「死と乙女」 [シューベルト:弦楽四重奏曲]

 「大フーガ」を聴いてばかりいて、少し違う音楽を、と思って手にとったものがケラー四重奏団のシューベルトだった。このCDは滅多なことでは聴かないのだが、BLOGに一度書いておきたくなり、改めて聴き直す。

ケラー四重奏団 (Hungaroton) 1989年録音
1st 12'00'' 2nd 15'04'' 3rd 3'55'' 4th 8'55''

 私がもっとも信頼する音楽評論家のひとりに幸松肇氏がおられる。幸松氏はこの盤について「この大曲をほとんど無傷で弾き通すことは不可能に近いが、彼等にはそんなそんな心配は全く無用だった。(中略)他の団体では最後まで無事で生還して欲しいと祈るあの聴衆の苦しみを感じさせなかったのはこのケラーだけだった。(中略)彼等の自然の発想と自然な発音が曲想と完璧にマッチして、聴衆が安心して曲の発展に身を任せていられる余裕を生み出している」(『クラシック名盤大全 室内楽曲篇』より)と書く。しかしながら、このCDの演奏はそんな簡単な言葉で済まされるようなものではない。

 シューベルトの音楽は、私はある時からとても怖くなった。その怖さとは、心地よい眠りに包まれ、安らぎに身を浸す甘美さ、しかし、一度目を閉じればもう二度と目覚めることはないのではないかという不安のような感覚だ。

 いつから、そのような怖さを知ったのだろう。それはおそらく内田光子による最後の三つのピアノ・ソナタを聴いたくらい?いや、ムラヴィンスキーの指揮する未完成交響曲をビデオで観たときくらいか?ホルの歌う「冬の旅」を聴いて空恐ろしくなった?

 このケラー四重奏団の演奏も怖い。暗い暗黒がぽっかりと空いている。その暗黒からは懐かしい子守り歌が絶えず流れてくる。お前の安らぎはここにあるのだよ、と生きている身を揺さぶるような何か深いところからの菩提樹の声がする。何という甘美な夢なのだろう。二楽章の主題の奏し方など、聴いているだけで魂を吸い取られるようだ。また、ゆったりとしたテンポが輪をかけて安らぎを与えてくれる。第二変奏のピッチカートが何と優しく、それでいて虚ろに響くのだろう。身をよじるようなヴァイオリンの旋律が私たちの心とともに泣く。第三変奏の涙に濡れたチェロの歌、第五変奏の過ぎ去りし幸福を振り返るような、胸を締め付けるような初々しさはどうだろう。最後はゆりかごに乗った子供時代に回帰するようでさえある。

 一楽章も絶品である。旋律の歌い方からして一味違う。その美しい旋律には吸い込まれるようだ。シューベルトは何という美しい音楽を書いた人だったのだろうか。三楽章のスケルツォもけしてきつい音にならない柔らかい奏し方が美しい。おとぎの国に遊ぶようなアレグロ・モルト。速くもなく遅くもないテンポ。これが梅毒に冒されていた作曲家の夢なのだろうか。

 終楽章は動きのある音楽であるが、ケラー四重奏団の演奏はどこかけだるさがある。けして、ドラマに浸りすぎることなく、ひたすらシューベルトの書いた美しい旋律とそのたっぷりとした情感とを音化することに努める。コーダの決め方も素晴らしい。

 


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